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理  趣  経(2)


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〔第 七 段〕
一切無戯論如来が主体で、文殊菩薩が復唱している。
自他の区別などの対立のある世界は、すべて仮のもので、人間の分別(差別)から生まれたものを『戯論(けろん)』といいます。戯れの論なので、一切なくさなければいけません。それで一切無戯論如来といいます。

一切無戯論如来は文殊菩薩と同じなので、文殊菩薩の悟りの境地を現しています。文殊菩薩は智恵の仏様ですが、智恵とは分別を断ち切ることなのです。その分別とは煩悩ですから、それを断ち切るにはどうしたらいいのでしょうか。

この世にあるものは全て存在しているようであっても、色々な縁で形造られたものだから、本来はないものだから拘りをなくすという空相。全てのものは仮の姿で、絶対にあると思い込んでいるから、執着やこだわりが起こるので断ち切るものであるという無相。あれもしたい、これもしたいという限りない願いは、執着を起すので断ち切るものであるという無願。これらを断ち切って、その後に光明が見えてくるという。

拠り所にすべきものでないものに拠っているから、苦しみが生まれます。執着や拘りを断つには文殊菩薩の剣で執着を断ち切り、持っているお経で真理の世界を示してくれる。


〔第 八 段〕
金剛界曼荼羅(真理)に入るには、どうしたら良いかを一切如来入大輪如来が説いています。菩薩になると纔発心転輪菩薩(はいほっしんえんりんぼさつ)です。
【纔(さい)】は、『わずかに』『するや否や』という意味で、わずかに発心をしただけで、すぐに真理の世界に入り法輪を転じることができる菩薩です。一切如来入大輪如来または起平等心転法輪大菩薩ともいう。

ここでは四種の平等を説いています。仏様と自分が別のように見えるけれども、本質的には違わないということです。
1・金剛平等  自分と仏様が別々に見えても、本質的には違わない。本来1つであるということです。

2.金剛平等  金剛不壊のことで、自分の本質も仏様の本質も変わりなく、堅固で永遠性を持り壊れることがない。自分を離れ如来はなく、如来の心じゃ自分を離れては生きてこないので、自分自身を観察したら、それが仏様である。

3.義平等  利益を現しています。ここでも利益は『特質』『特徴』『持ち味』といいう意味で、自分や周りにいる人々も特徴があって、その特徴は仏様と全く変わらない。発心はその人の良い人格を目覚めさせるから、人の行動は自利利他の菩薩行であるから、全ての人に永遠の人格を育む行いになるという事です。

4.一切業平等  業の働きで、活動が自分も仏様も本質的には1つである。それなので発心した人は、無欲であるから全ての行いは、そのまま全て如来の働きになる。

表面的なものしか見ていないので、周囲の欠点などが目についてしまうが、本質を見れば平等であるということです。
永遠性を見つめて、自分と仏様は変わらない。自分は仏様と同じ本質・全ての法・教えを持っており、活動も仏様と変わらずに、自分の働きは仏様の働きをしているのだと気付く事が悟りの世界に入ることができる。


〔第 九 段〕
供養を通して、謹み敬う行動から如来の世界に入ることを説いている。無限の価値を持つものについて、どのように供養すべきかが主になっている。
一切如来種種供養蔵広大儀式如来がお説きになっています。一切如来の種々の供養を蔵する、広大な儀式にいる如来という意味で、『一切如来のさまざまに供養する、広大な限りない数の儀式を執り行う如来』ということになります。菩薩では虚空庫菩薩のことです。

生きとし生けるもの全ては仏であるので、本質はみな仏で悟りを持っているが、それに気付いていない。それなので自分だけでなく、他人も供養することが非常に大切なことです。そこで四種類の供養に分けられます。これは内四供養菩薩の悟りの境地であるともいいます。
菩提心供養  菩提心を起こす。内四供養菩薩では、金剛嬉菩薩で、喜びを表すことで供養する。
灌頂供養    一切の衆生を救済する。金剛鬘菩薩で、喜びを現すことで供養する。
法供養     妙典(法)を受持して仏に答える。金剛歌菩薩で、歌をうたって供養をする。
羯磨供養    般若波羅密多を受持し、読誦し、書き、他に教えて書き、思惟する。金剛舞菩薩で、踊ることで供養をする。

虚空庫菩薩は、無限の価値を持っている、無限の価値を見つけ出す菩薩という意味で、その菩薩が如来が説いた四つの教えを明らかにしています。一切の活動は空しからず完成するという、金剛のように壊れることのない悟りの真髄をお説きになりました。


〔第 十 段〕
一切を調伏する悟りの境地を、能調持智拳如来が説いている。
どうしても言う事を聞かない者を叱り付けて、引っ張って来るのです。一切を征服するさまざまな智恵を説いた般若の教えを説きました。

煩悩や汚れは、本来はよそから来ているものなので、よそから来ているものをやっつけて、本性の価値に目覚めさせていく事が調伏なので、本来持っている本性の価値の再認識を、目的とする怒りなのです。
それは自分の感情からではなく、相手が正しい道に行かないことを可愛そうに思って起こる怒りなのです。
般若に目覚め、忿怒の智恵を身に具え、平等性・調伏性・法性・金剛性にあることを4種の忿怒で示しています。

最初の怒りは、降三世明王の悟りの境地です。
他化自在天を踏みつけている。それは釈迦が菩提樹の下で悟りを得ようとしているときに、それを妨害した魔王なのです。お釈迦様は誘惑や迫害に対して、烈火のような忿怒の心をもって立ち向かわれた。それが降三世明王なのです。


第十一から十七段までは今までの復習で、現実世界にいるものとの繋がりが説かれています。

〔第十一段〕
初段〜十段までをひとまとめにしました段です。
説き手は、一切平等建立如来。この世に存在するあらゆるもの一切が、平等であるという境地に住んでいる如来。普賢菩薩と同体で、普賢菩薩が如来の形をとって『一切の真理の悟りの最上のものを表す般若の教え』を説きました。

もう一度、現実世界と真理の世界の接点を探そうというのが、この段です。それは…
第三と第七段の境地である平等性(金剛部)のまとめは、堅固な菩提心を持っているので、仏様と自分はいつも平等である。自分がそのまま仏様であったということ。壊れることのない仏性を衆上が持っていることが平等性の悟りの境地である。

第四と第八の境地である義利性(宝部)のまとめは、自分はつまらない人間で、価値がないと思うのは、自分の良い所に気付いていないからであって、自分の良い所に気付き、他人の良い所に気付くということが、義利性の悟りの境地である。

第五と第九段の境地である法性(蓮華部)のまとめは、蓮は泥の中でも清らかな花を咲かせるように、衆生も色々な煩悩の中にいるが、本来は清らかだあり、仏教をもっている。それは全てのものは真理そのものであるからです。これが法性の悟りの境地である。

第六と第十段の境地である事業性(羯磨部)のまとめは、人様のためにやっている、自分のためにやっていると思っている事は、本来仏様の働きである。現実世界で体を動かし、他人に供養をしている。それが仏様の境地、働きであるという。これが事業性の悟りの境地です。事業とは働き、活動を意味します。

最後にあらゆる如来と菩薩が集まった曼陀羅に、如来の加持を得た悟りの境地に入る。


〔第十二段〕
説き手は毘盧遮那如来です。一切の生きとし生けるものに仏様の力を加えることによって、自分は仏であると気付かせる。その生きとし生けるものが仏であるとは、どういうことかを説いています。

一切の生きとし生けるものは、如来蔵であるというのです。大乗仏教では全てのものは、如来蔵であると考えています。如来蔵おは、仏様の蔵に自分が包み込まれている。そして自分の中にも仏様を包み込んでいるという両方の関係があります。
そして曼陀羅の一段外側にいる大自在天などの位の低い神様達が、「お前も仏様だ」と言われて喜んでいます。一方菩薩達はそれを聞いて驚いています。みんなが仏様である。どんな地位の低いものでも心と体と言葉は、仏様のものと変わらないといことを教えているのです。


〔第十三段〕
十二段の続きで、神様達が出てきます。ここには七母天女という女神が登場します。七母天女は七人の女性の神様のことで、この女神達は人間を引き入れ、肝や肉を食べる悪い神ですが、仏様はこの女神達に仏道に引き入れ、仏教に帰依させ、煩悩を殺し、立派な人格になったら、自分達が昔やっていたやり方で、迷える人を仏教に引き入れ立派に育てなさいということです。この女神達も「お前も仏様だ」と聞き、仏様の足に礼拝し、真言を唱えています。


〔第十四段〕
三兄弟が仏様の足に礼拝して、真言を献じました。
三兄弟は梵天・大自在天・那羅延天ですが、ヒンドゥー教では最高神なので、理趣経では三兄弟となっています。


〔第十五段〕
四姉妹が真言を献じました。
大自在天の眷属で、ジャヤー・ヴィジャヤー・アジター・アパラージターで、インドでは古くから信じられている女神ということです。


〔第十六段〕
仏様の総出演です。お互いに光を出し合い、お互いがお互いを映し映されて、自分の中に他人が入っているし、他人の中に自分も入っているという重々無尽の関係であるとこと示そうとしています。

説き手は無量無辺究竟如来。
理趣経を聞いて、受持し読誦して、その義を考えたなら極めた終り(究極の悟り)を得る事ができるというのです。自分だけが悟るのではなく、世の中にお返しをして、その利益を自分が受けるということ。自分の幸せが他人に移り、他人の幸せを自分が受け取らせて戴くという関係になることが究極なのです。


〔第十七段〕
毘盧遮那如来が、最も勝れた始めも終りもない永遠の真理の絶対の楽しみで、壊す事のできない絶対の悟りの境地である金剛の真理を表す般若理趣経の教えを説いたということです。これが理趣経の総論で、内容を五人の菩薩(五秘密)の境地に分けて説いています。それは一切衆生が如来の心と1つになり大楽の世界に生きることを示し、大楽の世界がそのまま自からのものとなっていることを現したものです。

欲金剛明妃菩薩  大欲の完成。欲を捨てなさいでははく、欲を持ちなさいと説いています。この欲は自分の欲ではなく、一切衆生のための欲(大欲)です。衆生を救済するためで、決して自分一人の欲のことではありません。衆生のための大きな欲を持つ事が最も勝れているものを完成しているから、大楽の最も勝れている悟りを得ることができる。

金剛触明妃菩薩  大楽の完成。自分自身のための楽しさは続くものではなく、楽しくなったり苦しくなったりしますが、自分を捨てて人のために尽くすことが絶対的な楽しみ、それが大楽なのです。大楽の最も勝れているものを完成することで、一切如来の絶対の悟りを手に入れたならば、一切如来の大力の魔を摧く最も勝れた悟りを得る事ができる。

金剛サッタ菩薩   大力の魔を摧く。人間に襲い掛かる病気などの現世利益の災難を避ける。それと同時に煩悩をもっと大きな価値に転換していく、小さな事に拘らずに今まで持っていた煩悩を大きく育てる。自己の問題を解決し、自分だけが安楽になることではなく、他人を教化し生涯を通して衆生の苦がなくなるまで、教化し精進したなら自分の精神的な幸せも得られるといことです。

金剛愛明妃菩薩   三界を自在の主となる。三界のどこにいても自在に活動ができる。本来の姿を見つけ出して、見つけ出したものによるということです。何かから離れることではなく、自分本来の性質そのものをハッキリ出していくことが自由ということで、精神的な自由が大切になります。

金剛慢明妃菩薩   自分は悟りの世界へは行かずに、一切の生きとし生けるものを救うために現実世界へ住んで、ひたすた衆生救済を行うということです。

『大きな欲を持つ事で、大きな楽しみを得なさい。大きな楽しみによって一切の悟りの核心に触れなさい。悟りの核心に触れる事で、一切の悪魔をやっつけなさい。悪魔をやっつけることで一切の三界の自在の主をなれる。』と五つが繋がっているのです。大乗仏教の菩薩道は、自分の徳は溜めておいて、それをことごとく他人のために出すという利他行なのです。



次に現実世界で働くとは、どういうものなのかを説いています。理趣経の精神を身につけた菩薩が、どうあるべきものなのかということを説いています。
1.菩薩の最も勝れ智恵のある者(真言行者のこと)は、悟りの世界へは行かずに苦しんでいる衆生を彼岸へ送り届け、自分は彼岸に渡らない。

2.般若は智恵で悟りそのもの、世の中の真理です。真理そのものは私達と繋がりがないので、方便をもって衆生を救いとるということです。現実世界の活動(方便)だけで、どれが真理に裏づけられてないと暴走してしまうので、真理と方便は1つにならないといけないのです。

3.三界の一番上の界である有頂天から再開である地獄まで、あらゆる生きとし生けるものを最後の一人まで調伏し尽くすということです。

4.蓮の花が泥の中から綺麗な花を咲かせるように、欲も本来は清浄である。欲望は汚れたものではなく、我が出てくるので汚れるのです。自我ではなく、苦しんでいる人が一人でもいたら、自分は悟りの世界へは行かないという大きな欲を持ちなさいということです。

5.大きな欲望は本来清浄であり、絶対に安楽で非常に豊であると説いています。全ての世界で自在になり、生きとし生けるものの救済のために大きな利益をなすことができる。


十七段の功徳が説かれています。理趣経を毎日朝夕にお唱えしたり、聞くことができるならば、一切の安楽と心楽しむことを得ることができる。阿@如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の悟りを身につけ、金剛サッタの位を得るということです。

最後に菩薩が理趣経を説く者と、受持したり唱えたりする者の両方を褒めたたえています。
一切如来、金剛杵を持っている菩薩達が集まって、理趣の法を完成させようと思い、みんな一緒に金剛サッタを褒め称えています。
この最も勝れているお経をずっと持ち伝えるものは、どんな悪魔も壊す事、災難を与える事は出来ない。そして仏菩薩の最も勝れた位を身につけて永遠に悉地を受け取る事ができる。



〔流 通 分〕
功徳を説いています。一切如来と菩薩は今まで説いてきたような、非常に勝れた説をお説きになり終わって、理趣経を受け持つもの皆に悉地を与えようとすると、皆は非常に喜び信じて受け、これを実行しました。と書かれており理趣経は終りです。

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